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スポーツの市場価値を高める“最重要事項”とは何か

2025.02.01

Column

※こちらの記事は2025年2月に執筆したnote記事を加筆修正したものです


日本でスポーツに携わる人々に尋ねれば、皆が口を揃えて「日本のスポーツはまだまだ」「日本のスポーツ界を変えたい」といったようなことを口にします。


どうして、満足している人が少ないのでしょうか。


日本人アスリートの国際大会における競技成績には、目を見張るものがあります。昨年開催されたパリ・オリンピック/パラリンピックでも、日本の国旗を背負った多くの選手たちがメダルを、それも多種多様な競技で(伝統的なものから新しいものまで)獲得したことは、記憶に新しいと思います。


国内における「スポーツをする」ということの普及度や、そもそも国がもっている経済力や環境を世界の多くの国と比較すれば、日本は「スポーツ大国である」と言って差し支えないと思います。ただ、私のようにスポーツ界に身を置く人間の視点で考えてみると、「スポーツ大国」と自信を持って言ってしまえるほどの充足感は、ありません。それは日本人特有の謙遜なのか、それとも、実際スポーツにおいて「まだまだ」と言える領域があるのか。この正体は、なんなのでしょうか。

スポーツの成⻑可能性

私たちが「日本のスポーツ」に充足感を持っていないこと自体は、決して悪いことではありません。詰まるところ現状に満足していないということで、向上心があるということです。


では「満足していない」の矛先はどこに向けられるべきなのか。問題はそこにあります。仮に「日本のスポーツ」に成⻑可能性=何かしらのポテンシャルがあるとすれば、それは一体どこにあるのか。確かに、私がサッカーを見るために周ったヨーロッパやアメリカ、3年ほど住んだ南米アルゼンチンにおいて、スポーツは「突出した文化」であったように思います。そもそも「スポーツ」や「スポーツクラブ」という概念を作ったのは⻄洋ですが、アスリートやスポーツクラブが持っている価値・尊敬度や、社会への影響力は日本のそれと比べ物にならないものがありました。


私の場合「日本のスポーツにはまだまだポテンシャルがある」と口にするときの根拠は、ここにあります。過去に肉眼で見た海の外の「スポーツという存在」と、私たちの国における「スポーツという存在」を比較して、「まだまだ日本のスポーツはやれる!」という、いわば確信のような感覚を私は持っている。


それは何も「未だ人類が到達したことがないところへ...」というようなアポロ計画的希望を語っているのではありません。すでに海の外では行われていることと比較して、「日本はまだまだやれる=やってないことがある」と言っているに過ぎない。私たちにはまだ、「手をつけていない領域」があるのです。

スポーツの市場規模

例えば「日本スポーツのポテンシャル」という言葉を「市場規模」という言葉に置き換えて考えてみます。お金以外のあらゆる形で「スポーツの価値」を定義できるのは間違いないですが、現代の社会システム上「価値があるものにはお金が集まる」ということを尺度にするのが、ここで議論を進めるには良いでしょう。


実際に日本の「スポーツ庁」でも、この「市場規模」という指標を一つの測定可能値として居場所を与えています。ところで世界を見てみると、あらゆる要因が絡み合った結果スポーツの市場規模は年々拡大している。スポーツは市場として現在進行形で成⻑しているということを意味します。


一方、日本のスポーツは拡大こそしているものの、スポーツ庁が掲げた「2025 年までに 15兆円」という目標に対して「8.4 兆円」程にとどまる*見通しです。*第三期 スポーツ基本計画


日本と世界を単純に比較することは難しいですが、少なくとも日本のスポーツの方向性を定める組織が「15 兆円」という数字目標を立て、その結果「8 兆円」止まりであるという事実は、今のままではいけない「"何か"が必要である」ということは言えそうです。

優秀なビジネスパーソン

スポーツはこのままじゃダメだ!日本のスポーツを変えたい!と声高に宣言する人は、非常に多いと思います。それ自体は、スポーツ界にとって希望です。傾向としてあるのは、そのようにスポーツ界に"参入"し、私たちに希望(たまに絶望)を抱かせてくれるのは優秀なビジネスパーソンたちです。市場の余白や金銭的な可能性、あるいはスポーツへの情熱を担保にして、IT 企業がスポーツクラブを買収したり、投資家がスポーツに懸けてみたり、他業界でビジネス的に成功を収めた個人や組織が参入を試みます。実際にスポーツとこの類を検索すると、ビジネスやデジタル、IT、テクノロジーなどの言葉が並んでいることがわかります。
優秀なビジネスパーソンは過去に比べると充分にスポーツ界に存在するようになりました。しかし、目標には届いていません。かといって「選手の質が低いからだ!」なんて微塵も思いません。日本のスポーツ界が「まだまだ」の理由があるとすれば、そこにはない。


冒頭で書いた通り、現時点でも日本のアスリートは十分過ぎるほど質が高い。世界と比較されることの多いサッカーなどの競技を見ても、少なくとも「まだまだ全然」なんて言える段階ではなくなってきました。彼らアスリートは、既に客を呼べるだけの価値を持っています。

日本スポーツに抜けている感覚

以下の資料は、令和 4 年 3 月スポーツ庁により策定された『スポーツ基本計画』は、 「スポーツ基本法の規定に基づき、文部科学大臣が定めるスポーツに関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るための重要な指針」です。スポーツ界にいる人間として、目を通しておいて損はありません。

資料: https://www.mext.go.jp/sports/b_menu/sports/mcatetop01/list/1372413_00001.htm


資料を一通り読んでいくと、以下のような言葉が頻繁に用いられていることに気が付きます。


スポーツを「する」 「みる」 「ささえる」スポーツ参画人口の拡大と、そのための人材育成・場の充実・・・


スポーツは、 「する」 「みる」 「ささえる」という様々な形での「自発的な」参画を通して、人々が感じる「楽しさ」や「喜び」に本質を持つもの・・・


スポーツを「する」 「みる」 「ささえる」という様々な参画を通じて、より多くの人がスポーツの楽しさや感動を分かち合うような「スポーツ文化」の成熟に向けて、スポーツ基本計画においては必要な方針や具体的施策等を示すことが求められている。


これを見ると、スポーツ庁では前提として、そもそも「スポーツ」というものは「する/みる/ささえる」という3つの要素で構成されているものとして分析が行われ、あらゆる計画や目標が立てられていることがわかります。この「スポーツをする/みる/ささえる」という3つの側面でスポーツを考えるスタンスは、日本人全体の「スポーツ」に対する見方をよく表しています。そこには、スポーツを「つたえる」が抜けているのです。

スポーツを“つたえる”

スポーツというものは、そもそも意味がないものです。語弊があるかもしれませんが、エッセンシャルではない(なくても死なない遊戯)活動であるということは、コロナ禍において顕になったことかと思います。意味がないのだから、私たちは意味を作っていかなければならない。ないものに意味を作って、それを価値にし、市場にした。「元々スポーツには意味があることだ」という前提で物事を進めるのは、あまり得策ではないように思います。


私たちがスポーツというもので人々を魅了し、価値を創出し、産業として成立させ、社会の中で影響力を持ち、憧れを醸成し、足を運ばせ、お金を使ってもらうためには、何よりも「スポーツを伝える」ということにこそ、本来は躍起にならなければならない。


私たち日本人は⻄洋から「スポーツ」という文化を取り入れましたが、実はスポーツを議論するときに「つたえる」という感覚が一切抜け落ちた状態で議論をし続けているのではないか。スポーツを「ささえる」の中に「つたえる」が入っているじゃないか、と思う人もいるかもしれません。しかし、私たちが考えるような「スポーツをささえる」には狭義的なイメージしか内包せず、その2つは独立させて考えるべき重要な要素だと強く思います。支えるのではなく、伝えるのです。


スポーツというものは"人に伝わって"初めて成り立つ市場です。それは舞台の上でパフォーマンスをすること(そしてそこに観客がいること)で価値になる芸術の世界や、読者が読むことで初めて完成する小説などと同じく、スポーツ(興行)を考えるとき「(広義の意味で)観客」を集めなければ、そもそも論理が破綻した状態になります。日本がスポーツというものを議論する際に、仮にこの「つたえる」という観点がごっそり抜け落ちているのであれば、スポーツが何かしらの意味をもつことは極めて難しいはずです。


では、スポーツを「つたえる」役割を担うのは、誰なのか。

スポーツに必要不可欠な職能

スポーツを「つたえる」役割を担うのは、フォトグラファー・ビデオグラファー・デザイナー・ライター・クリエイティブディレクター・アートディレクターなどの「クリエイター 」です。日本スポーツのポテンシャルは「クリエイター」領域へのアプローチにあります。私はこの記事で、「日本のスポーツ市場規模拡大の重要成功要因はクリエイターの質と量である」ということを主張したいと思います。


スポーツを「つたえる」ということは、ブランディング、クリエイティブディレクション、クリエイティブプロダクション、デザインなどの方法を用いて、スポーツというものを魅力的かつ持続的に伝えていくことを指しています。しかし日本のスポーツ界には、それを担う「クリエイターの質と量」また優秀なクリエイターを扱える人材が揃っていません。


日本という国は全体の特徴として「技術はあるけど売るのは下手」と言われてきました。日本の経済が上向かないことの一つの要因としても、このことが挙げられると思います。それとほとんど同じように、日本のスポーツは「競技力 etc. はあるけど伝えるのが下手」と言える。過去のように、テレビや新聞がメディア機能の全てを担い、中央から情報が拡散された時代は既に終わっています。プラットフォームが多様化し、メディアや情報のあり方が変わっているいま、スポーツは世界に比べてかなり遅れをとってしまいました。いまだに私たちは、スポーツをテレビ的・新聞的な伝え方しかできていない。進化していない。私はスポーツを行うにあたって必要不可欠な存在である、例えば選手やコーチというものと並列にある大切な存在として「クリエイター」があるべきだと思っています。


その理由を、以下に書いていきます。

クリエイターが「鍵」である3つの理由

1.経験からくる確信


私はこれまで、選手としてサッカーというスポーツを始めてから、監督・コーチのキャリアをスタートさせるとともに、様々なことに取り組んできました。主な経歴を箇条書きにすると、以下のようになります。


・18歳でプレーヤーを辞める
・スポーツトレーナー科/鍼灸学科卒(鍼灸師国家資格保持)卒
・アジア/ヨーロッパ約15カ国を回りサッカーを視察
・アルゼンチンに渡り、現地の監督養成学校に3年間在学:CONMEBOL PRO(南米サッカー連盟最高位監督ライセンス)を取得
・鎌倉インターナショナルFCの監督に就任し、リブランディングのディレクションを行うことを皮切りにブランディング責任者を兼任:監督を退任後、CBO及びテクニカル・ダイレクターに就任
・初著の『競争闘争理論 サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか』はサッカー本大賞2023「大賞」を受賞:同理論を軸に積極的に講義を行い普及に努める
・2024年スポーツのブランディングファーム(株)vennnを設立


特徴はスポーツにおける「On pitch」と「Off pitch」を跨ぎ、競技者として、また同時に競技者以外としてスポーツに取り組んできたという点にあります。それ以来、私は多くの「クリエイター」と仕事をしてきました。いわば「スポーツ関係者」と「クリエイター」の間に立ち、通訳のような役割をしてきたと言えると思います。私はどちらの言語も用いることができます。


その経験から、日本のスポーツにおいてクリエイターの量が少ない理由も、質が低くなってしまう理由もわかってきました。また世界中のスポーツを見た経験や、スポーツ業界内/外のクリエイターと仕事をした経験は、私に「日本のスポーツ市場規模拡大の重要成功要因はクリエイターの質と量である」と思わせるには十分なものでした。



2.クリエイターはスポーツのインフラである


スポーツという題材を用いて、いくら頭の切れるビジネスマンが先鋭的な何かをしようとも、あるいは選手たちが素晴らしいプレーをしようとも、それを魅力的かつ効果的に「伝える」ことができなければ、何も意味をなしません。それは、スポーツだから(自らで意味を作らなければならないから)に他なりません。


そのように考えると、スポーツを伝える役割を担っているクリエイターの質と量は、結果と価値(の創出)を支える「インフラストラクチャー(基盤)」であることは間違いありません。


伝え方次第で、それがより価値を持つことも、全く価値を失ってしまうこともあります。日本のスポーツは、この大切な「インフラ」に全く手をつけていない。逆に言えば、そこがものすごく大きなポテンシャルであると言えます。歴史上の偉大なスポーツシーンには、必ずそれを魅力的に伝えているクリエイターの存在があることを忘れてはいけません。



3.クリエイターは日本スポーツが唯一とれてないターゲットセグメントである


デザイナー、フォトグラファー、ビデオグラファーなどの「クリエイター」は、スポーツにとって"提供側"でもありますが、同時に大切な"需要側"であるという点も考慮する必要があります。


アメリカやヨーロッパなどの⻄洋のスポーツシーンと、日本のスポーツシーンの大きな違いは「日本のクリエイターのライフスタイルの中にスポーツがない」という点です。SNS などのツールで世界中のクリエイターと繋がりを持てる現代において、このことを実感するのは難しくはありません。


アメリカやヨーロッパでは、例えば子どもの頃にスポーツをやっていて、大人になって他業界で実力を発揮しているクリエイターが「スポーツ」の世界にクリエイターとして戻ってくる、スポーツ"も"1 つの表現の場として当たり前のように捉えている。あるいは Yoann Guerini のように、アスリートを引退してから、ファッション業界とスポーツ業界を跨いでフォトグラファーとして活動をするような人も散見します。スポーツは、ファッションと同じようにクリエイターにとっての「表現の場」として捉えられているように思います。


誤解を恐れずに言えば、「クリエイター」と呼ばれるような職能を持った人々は、何か自らで発信する事柄を「かっこいい、かわいい、おしゃれ、センスがある、クールだ、イケてる、流行っている、洒落ている etc.」と人々に思わされることが得意な人々です。ライフスタイルに憧れを持たれるような人々です。彼・彼女らがスポーツにクリエイティブ領域で関わることによって、スポーツを魅力的に発信し(ポートフォリオとしてアーカイブし)、スポーツの当事者になり、クリエイティブコンテンツを拡散し、SNS や実社会で仲間(フォロワー)に届ける。


その結果、純粋なスポーツ業界人では届かない層に「スポーツ」というカルチャーが"魅力的なビジュアルで"届くようになります。日本にはその循環がほとんどなく、クリエイターのライフスタイルの中にスポーツ観戦などの文化が全く入っていないのです。それは、スポーツの価値を高めていく上で大きな痛手になります。


日本ではなぜ、クリエイターのライフスタイルに「スポーツ」が入らないのでしょうか?

優秀なクリエイターが集まらない理由

前提として、日本にはスポーツの外に優秀なクリエイターが山ほどいます。0から"スポーツクリエイター"なるものを育てるのではなく、スポーツに限らずクリエイションをしているクリエイターが「スポーツ(業界での仕事)も"そのうちの"一つ」として、出たり入ったりすることが当たり前の状況をつくること、それがゴールになります。


つまり「どうすればクリエイターがスポーツに引き(惹き)寄せられるか」を考える必要があります。遡れば学校教育など、あらゆる原因が複雑に絡み合っていると想像できますが、まずはクリエイターを引き寄せるにはどのような最低条件が揃わなければいけないかを、以下のように整理します。


1.魅力的なプロジェクトがあるか
2.十分な報酬 or それに見合う対価をもらえるか
3.クリエイターに"似合う"スポーツブランドの存在


逆に言えば、"これらの条件が揃っていないから"日本のスポーツ業界には優秀なクリエイターが引き寄せられない、と言えそうです。


1.魅力的なプロジェクトがあるか


残念ながら日本の場合、スポーツはその他のカルチャーと比べて"イケてる業界"という印象がほんとどないのを認めなければならないと思います。唯一(もちろんスポーツ界に優秀なクリエイターは0ではありませんが)優秀なクリエイターが制作をするのは、外資系スポーツブランドの JP(日本法人)です。NIKEやadidas、Onなどがその良い例です。スポーツクラブやスポーツ関連の企業が優れたブランディングを⻑期的に行えている例は非常に少ないと思います。クリエイターが腕を振るうのは、かっこいい、おもしろそう、ポートフォリオとして残したい、などの価値を感じたときに限ります。ダサい、イケてない、自分の作品として残したくない、などの印象を持たれれば仕事を共にすることは非常に難しくなってしまいます。そのように仕事を選んでいくことは、クリエイターのキャリア形成(クリエイター自身のブランディング)において不可欠だからです。


2.十分な報酬 or それに見合う対価をもらえるか


もしもそのような理由を作り出せない場合、十分な金銭的報酬や、それに見合う何かしらの対価(人との繋がり etc.)を持たなければなりませんが、日本のスポーツ一般はそこにかけるお金がありません(or あってもかけない傾向があります)。また、クリエイターとの繋がりを形成している人物がスポーツ界に非常に少ない。そうなれば、優秀なクリエイターが仕事をする理由が一つもなくなってしまいます。


3.クリエイターに"似合う"スポーツブランドの存在


優秀なクリエイターが「スポーツ」という領域でクリエイションをするフックになるのが、やはり「スポーツブランド」の存在です。スポーツカルチャーを先導してきたグローバル規模のスポーツブランドが、プロアスリートでも一般人でもない「クリエイター」を広告キャンペーンに使うことは常識になってきた動きではあります。日本発祥のブランドでも、それに倣って広告キャンペーンにクリエイターを起用する例は多くはないものの散見します。ただその例が少ない、またはあっても違和感を感じてしまうのは、イメージとして「スポーツ」や「スポーツブランド」に、「クリエイター」という組み合わせが馴染みのないものだからです。これは遡ると、日本における体育的に発展をしてきた「スポーツ」という領域と「クリエイティブ」という領域の、概念の遠さに起因していると思います。


「似合う」というのは見た目的に「似合う」かどうかではなく、そのブランドの精神やアイデンティティが「クリエイター」という存在によく似合うかどうか、ということです。「普段使い(タウンユース)ができるスポーツブランド=ファッションに取り入れることができる=クリエイターに似合う」という解釈をされがちですが、そうではありません。それを勘違いした場合、とにかくスポーツのプロダクトを「スポーツ以外で使っている画を見せる」という浅はかな発想になり、ぎこちなく、マッチしていないものをスポーツの世界から出して無理やり身につけているような世界観が出来上がってしまいます。


クリエイターは当然クリエイティブでなければなりません。自らの持つ能力を使って、世の中に対してある信念を持って表現行為をするのがクリエイターです。そのような人たちが、スポーツをする、観る、伝えるなど、スポーツというものに触れるときに"身に付けたくなるような"ブランドが、やはり日本では生まれづらい。それは、スポーツというものの捉え方が⻄洋とは異なることを暗に示唆しています。海の外に目を通してると、規模が大きいブランドのみならず、ターゲットを絞った無数の「クリエイターによく似合うスポーツブランド」があることがわかります。


これが、クリエイターのライフスタイルの中に「スポーツ」というカルチャーが確かに存在している理由の一つです。

クリエイターを引き寄せることができれば

私がこの記事で書いたことは、「クリエイターの質と量」は日本のスポーツがすでに持っているポテンシャルを最大化するために最も重要なアプローチ領域である、ということです。そのために私たちは「スポーツにクリエイターを引き寄せる」機能を果たすことにフォーカスします。


これを実現するためには、多くのプロジェクトの成功例が必要です。短期のプロジェクトから中⻑期のプロジェクトまで、戦略からアウトプットまで臨機応変に担うことができますので、興味がある方はぜひご連絡いただければ幸いです。


私は何度も書いた通り、スポーツという軸でピッチ内からピッチ外まで様々な活動をしています。そのすべてにおいて必要不可欠なインフラが「スポーツをつたえる」の部分で、クリエイターとスポーツをより魅力的なカタチで伝えていくことです。
クリエイターを引き寄せることができれば、スポーツの言語とクリエイターの言語を扱い、両者が機能するよう通訳/翻訳をする役割を担うことができます。


スポーツ業界がクリエイションのことがわかっていない、クリエイターがスポーツ独自の世界観を理解していないなどの問題が起きてしまえば、これまでとあまり変わらない状況に留まってしまうことは、スポーツを「つたえる」分野において同時に留意しておかなければなりません。


クリエイターと、そのほかの職能が力を合わせて「スポーツ」は完成します。スポーツに関するすべてのことには「つたえる質」の高低が伴います。文字通りこれは「インフラ」で、これから自分やスポーツ界が何をしようと、この力がなければ価値を高めていくことは全くできないと思っています。攻める順番を信じて、これからも活動を行っていきたいと思います。