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『監督を辞めて、それから?』 複雑な様相を見せる脳内地図と、仕事的行為
2024.01.01
※こちらの記事は2024年1⽉に執筆した記事を加筆修正したものです。
アイルランドのバーで⿊ビール⽚⼿にチャンピオンズリーグを観ながら「サッカー監督に なる」と決意したのは、サッカー監督になりたいのかもしれないと思ってからだいたい3年後のことで、オレは本当に監督になりたいんか?を確かめるためにヨーロッパに来てから、だいたい3ヶ⽉後のことで、寝ている間に荷物を全部パクられてからだいたい3時間後のことでした。 情緒はたしか不安定だったと思います。
この仕事を始めてからちょうど10年のタイミングで、⼀度「監督」という役割に区切りをつけることにしました。
アルゼンチンで活動を始めたあたりから SNS ではたまに炎上するくらいには健康的に発信を続けてきていて(6年!)、私のことを応援してくれている⽅や気にしてくれている⼈も少なからずいらっしゃることも知っているし、それにもうしばらくは監督というものをやるのかなと思っていたからそれ前提に⾊々と叫んできたので、この決断をするに⾄った経緯や、またこれからのことを⽂章に纏めておく責任と意義があるのではないかと、せっかくなら何から何まで書きたいと思っています。 少し、⻑くなるかもしれません。
1.監督ができませんと⾔われたら
現在31歳になった私は、30代くらいは全部使って「サッカー監督」という職種を全うしようと思っていました。40歳の⾃分が職業⼈としてそれだけを追求するような⽣き⽅ができるとは到底思えなかったので、30代でいけるところまでいってみよう、という⼼意気でした。
ですので、まず始めに⽇本の指導者ライセンスの現⾏制度に異議を唱える必要がありました。スタートラインはそこです。
ライセンスを取ってからが監督としての勝負なのだとしたら、プロサッカー選⼿経験なし(=無名)かつ30代前半で勝負しようと思っていた⾃分にとっては、今の制度では⼟俵にすら⽴たせてもらえないことは⽕を⾒るよりも明らかだったからです。順番待ちと⼈脈作りに⼈⽣を費やすことは私には到底できませんでした。
正⾯からお伺い⽴てても難しいことはわかっていましたので、私はアルゼンチンで国際ライセンスを取得し、⽇本で監督として JFLを制覇する(J3へ昇格する)ことで、S級ライセンスが必要な段階になった"瞬間"に騒ぎを起こすという、少々アクロバティックな⽅法を取ろうとしました。できるだけ早く。1年でも早く。
その際には所属クラブからの援護や、世論を起こせるくらいの「名前」があることが戦略的に必要不可⽋だったので、アルゼンチンにいる時からSNSを計画的に利⽤していました。そのための要素が「アルゼンチン」というブランディングでもありました。
もし⽇本よりもサッカーが進んでいる国で取得した国際ライセンスを持っていて、かつ⽇本でしかるべき結果を出すことができる実⼒と知識を⽰し、所属クラブからの援護があり、様々な条件が揃ったところで「あなたは監督ができません」と⾔われたら「そうですか、では辞めます」と⾔い放って監督業を引退し、次のステップへ進もうと思っていました。ROCKです。
2.相反する選択
このアクロバティックな戦略にご⽀援をしていただいていた⽅々もいて、その⽅々には監督業に区切りをつけるというこの度の決断に際して、謝りたい気持ちがあります。
しかし今でも変わらずこの⽅法が、若者がライセンス制度に異議を唱える唯⼀の効果的な戦略だったと思っていますし、世界中で活躍している監督が多いアルゼンチンという国でサッカーを学んでみて、その思いは確信に変わりました。
計画通り3年で最上位ライセンス(CONMEBOL PRO)を取得し、⽇本で監督業を始めたのが3年前。所属クラブと⼀緒にカテゴリーを上げていくか、個⼈として移籍をしていき ながら戦っていくか、どちらかの選択肢を取るつもりでした。監督として代理⼈契約をしていただけるにまで⾄ったので、順調だったと思います。
ではなぜ、まだカテゴリーが低く(当時)設⽴3年⽬の「鎌倉インターナショナル FC」というクラブに、帰国後⼊団することを決めたのか。「1年でも早く」という意思とは相反する選択のように思います。
3.突如現れた問い
アルゼンチンがW 杯を制した瞬間の街の様⼦や⼈々の狂いっぷりを⾒た⼈も多いかと思いますが、彼らにとってサッカーとは、ただのいちスポーツからは程遠いところにある、何か得体の知れない、⼀⼈の⼈⽣よりも⻑く、深いものでした。
と、世間でも⾔われていますので私もそれを承知の上で⾏ったわけですが、いざ住んでみると想像をはるかに越える光景が広がっていました。
⽇本に帰って、仮に若いうちにサッカー監督として(運よく)成功できたとしても、社会にとっては何の意味もないのではないか?
そのように⾃分に問い始めるまで、さほど時間はかからなかったと思います。アルゼンチン における「フットボール」というものの存在感。社会そのものと⾔っていいほどの影響⼒。それを体感して、私も⾃分の仕事で何か「社会」に⼤きな影響を与えたいと思うようになりました。そうでなければ、サッカーを仕事にする意味はないのではないか。⽇本にだって、 まだまだサッカーやスポーツが触れられていない可能性があるのではないかと。
4.同時にコントロールする
鎌倉インターナショナルFCという新しいクラブを選んだのは、その突如突きつけられた問いが理由でした。
クラブや「鎌倉」が持つ⻑期的な可能性を鑑みると、私が「監督」という役割と、世間⼀般でいう「ブランディング」という仕事を"同時に"担いコントロールすることができれば、これまで誰も成し得なかった⼤きなことが(仕組みの妙によって)出来うるのではないか?こ のクラブであれば⾃分がピッチ上で構築する「サッカー(ゲーム)」を「社会」と繋げることができるのではないか、という光です。これはアルゼンチンで3年間を過ごした⾃分が、⼼の底から望んでいることでした。
5.到底無視できない変化
アルゼンチンに⾏ってからの3年間、帰国してからの3年間で、様々な変化が起きました。 25歳からの6年間はあらゆることが⽬まぐるしく動き、外部の環境はもちろんですが、内側から湧き出てくる感情や、これまでの⼈⽣で培ってきた価値観の変化は、到底無視できるようなものではなくなっていきます。
「監督業に⼀度区切りをつけるべきなのかもしれない」と考えることが多くなったのは、やはりサッカー監督という仕事と向き合えば向き合うほど「それ以外」のことを同時に情熱的 にこなすことはほとんど不可能に等しいということを、無視できなくなったからです。
監督業が他の仕事を、他の仕事が監督業を侵⾷し始めます。ただでさえサッカー監督という仕事は他の何かを⾏うにはあまりにもタフで、精神的にも物理的にも「いまここ」に縛られる職業です。ここまでは⾏けたけど、ここから先は難しいのではないか。
未来にまた監督という仕事をすることになったとしても、サッカーをゆっくり考えることや、⾃分の現場以外のサッカーを⾒る・学ぶことが出来ていなかった今の状況下の中、成⻑が⽌まってしまっているように思っていたのもまた事実でした。
アルゼンチンに⾏く前に仕事に対して持っていた「若いうちになんかしでかそう」というマインドと、今⾃分がやっていることが⽭盾していて段々とご飯が喉を通らなくなっていき ます。社会に何か⼤きな影響を与えるのなんて、1年や2年では無理だとわかっているからです。
6.トッド・フィールド監督
次第に、「サッカー監督」で私と同じ(あるいは上回る)クオリティを出せる⼈や成果を出す⼈はいるだろうけど「私には私にしか出来ない、まだこの世にない仕事がどう考えてもあ る」と考えるようになりました。5年に1回くらいのペースで来る、えらいポジティブモード発動です。
完全に決断をしたのは映画『TAR』を観た時でした。2023年で⼀番印象に残っている映画ですが、監督のトッド・フィールドが前作『Little Children』を撮ってから16年もの間、⼀ 度も映画監督をしていないということを聞いて、なんだか、決断できました。
私にとって監督を辞めるということは可能性を残しながら広げることであり、次のステッ プへ進むことであるのだと腑に落ちたのです。
7.興味の地図
私は上記したようなことの他にも、サッカーを軸にしながら様々なことを同時並⾏で⾏っ てきました。職業はなんですかと聞かれた時に使えていた「サッカー監督」という、とりあえずこれ⾔っとけば OK 肩書きがなくなってしまうので、私は⾃分がしていることを定義し始めました。お前は⼀体、何がしたくて、何をしていて、何を成し遂げようとしているのでしょう。
私が少し他者と違ったのは、サッカーというものに広義の「コーチ」という⾓度で興味を持ったとき、戦術やフィジカルに関する知識、あるいは組織マネジメントやトレーニングに関する知的好奇⼼を越えて、世界・海外に興味を持ち、実際に⾜を運んだり書籍を読んだりし ていく中で、⼈間という⽣き物や、それが作り出す⽂化や社会に興味が移⾏した点にあると思います。
そこから1つ⽬の着地点として「競争闘争理論」という理論体系が⽣まれ、以来それを軸に 私はサッカーやスポーツの価値観を形成していくようになります。同理論は『競争闘争理論 サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか』という書籍として、2022年世に放たれました。
さらにはそこから興味が交差して「強いということはかっこいいということで、強そうに" ⾒える"ということで、それは⼀体どうやったらつくれるのだろうか」という順序でブランディングやクリエイティブ、デザイン領域に関⼼を持つようになります。根は同じところから、外へ外へと興味関⼼が広がっていったのです。
8.私の仕事的⾏為
整理をすると、私はスポーツにおける「実践」と「理論」と「伝達」の3領域をあらゆる⽅法で⾏ってきたのであり、サッカー監督という仕事はその⼀つの⼿段でした。
既存の職業名で⾃分の仕事を説明するのが難しいと思っている理由は、サッカ ークラブで Competitor として競技をプレーし勝ち負けに⼀喜⼀憂しながら、Academician(この呼び⽅はちょっと⼤袈裟ですが)として理論の構築や体系化や構造化、執筆を⾏い、 加えてStorytellerとしてブランディングやクリエイティブ・ディレクションなどの事柄を同時並⾏で⾏っていたからでした。
私にとって3領域が同時に成り⽴っている状態こそが正常なのであり、最も理にかなって います。それをどこかに絞るとか、何かに集中するとか、既存の職業名を当てがうとか、決 してそういうことではないのだと気が付きました。3領域が⼀緒でなければ成り⽴たないのです。
私の仕事的⾏為が既存の職業名で説明ができないとするならば、⾃分の城を造るよりほか ありません。そこで私は、2024年株式会社vennn [ヴェン]という会社を設⽴し、組織をつ くっていくことに致しました。
9.組織のコンセプト
私がつくりたい組織は、スポーツを「物質の三態(Three states of matter)」に準えて捉えます。
H2Oが周囲の温度や圧⼒によって固体や液体や気体に姿を変えるのと同じように、スポー ツは実践者/媒体/第三者の有無や量によって「実践」や「理論」や「伝達」に姿を変えます。
これまでは個⼈でこのように考えて呼吸をしてきましたが、同じような解釈でスポーツを捉えている「組織」を形成することによって、より⼤きな規模で事が成しえるのではないかという仮説です。
「スポーツの三態」を取り出すと、私が今まで仕事でアプローチしていた対象は「実践者:プレイヤー(選⼿やコーチやクラブなど)」「媒体:メディアや本など」「第三者:オーディエンス≒観客」だった、ということが整理できます。
それならば、実践を担う<クラブ>と、理論を担う<シンクタンク>と、伝達を担う<クリエイティブスタジオ>という「3つの機能を持ったひとつの組織(=vennn)」をつくることで、新しいAbilityやOpportunityが⽣まれる可能性があるのではないか。
実践/理論/伝達と姿を変える「スポーツの三態」という捉え⽅こそが、つまるところ「スポーツの総合⼒」を説明する術であり、その⾒⽅をすると⽇本はまだまだスポーツにおいて「ポテンシャルがある」と⾔うことができます。それぞれの領域がバラバラに⾏われていたり、伝達(ストーリーテリング)領域のクオリティが異様に低かったりするからです。3領域(もしくはそのうちの2領域)を跨ぐ⼈材が集まる組織を形成すること、そのような⼈材を育てていくこと、そして3領域の専⾨性を組み合わせ、超越し、往来しながら価値を創造していくこと。 それがやりたいことです。
10.それぞれの専⾨性とスキルセット
これらの専⾨性やスキルセットは組織の未来から考えるとごく⼀部ですが、スキルは各領域にのみ独⽴して⽤いられるのではなく、それぞれの領域を越えて⼒を発揮します。例えばブランディングのスキルはサッカーのコーチング(実践領域)にも強みをもたらしますし、 ⾔語化や構造化はもちろん伝達領域にも⼤いに⽤いられます。
そしてこの専⾨性やスキルセットは当然私ひとりが担うものではなく、⼈材が集まれば集まるほど多様で多⾓的な集団になっていきます。このような集団が「スポーツの総合⼒」に戦いを挑むことで、スポーツにおいて独⾃の組成が⽣まれ、これまでにはなかったような視点やアプローチが⽣まれるはずです。これが組織をつくる理由です。
⽇本のスポーツ業界には、まだまだポテンシャルがある。やっていないことがたくさんあるのだというスタンスをとりながら、スポーツの総合⼒を⾼めることに挑みたいと思います。 サッカーというゲームのみならず他スポーツ競技と携わることも含めて、今まで以上に様々なことに挑戦していく所存です。
11.情緒的な何か
⼦供だった私にも少しずつ社会的な⽴場が⽣まれて⼈に迷惑をかけることが難しくなると、 誰かから⽰される尺度で出来る出来ないを判断するようになって、次第に、勝つことが濃厚な勝負しか挑まなくなっていきました。
うまくいくだろうと予想がつくようなことを「経験」と呼んで、⽣産し続けることで「⽣活」 というものを保ち始めて、⼈に理解してもらえないことは⾦にならないからと、⾃分の意思と直感を曲げることが増えていきます。
勝つか負けるかわからないこととか、うまくいくかどうかわからないこととか、⼈に理解し てもらえるかどうかわからないこととか、そういうことにしか燃えないタイプだったじゃんかよと21歳の⾃分が31歳の⾃分を笑います。
"社会"のことを何にもわかっていなくて、経験も実績もなくて、それでも何かに○指を⽴てている若者を⾒ると、⾃分だってまだまだ若造のくせにと後頭部をぶん殴られる。 まだまだ。